No Haste, No Chains ~数学の教育をつくろう~

※はてなダイアリーから移行しました

考えたり,感じたり,迷ったり

   考えたり,感じたり,迷ったり
   わかった!と思ってそこから一気にハイスピードで進んだり
   と思ったら,なんだかわからなくなって立ち止まったり,戻ったり
   元に戻って別の道を見つけて進んだり
   ただゆっくり進んでるように見えて,実はよそ見や道草をしていたり

遠回りや無駄に見える進み方も,次に進むときの下地となっていくような気がします。

まあ,でも,別に下地になっててもなくてもいいんです。
よそ見,道草していろいろ考えるって,楽しい。

人生,楽しいのが一番。

どうして“できない”なんて言うの?〜角の3等分線のこと

角の3等分線といえば,三大作図不可能問題の1つとして有名ですが,図書館で借りた「すごいぞ折り紙 入門編: 折り紙の発想で幾何を楽しむ」*1に,折り紙で任意の鋭角の3等分線を折り紙で作る方法が載っていました。作図不可能なのに,折り紙で作れるなんてすごいですね。角の3等分の折り紙は,著者が“三次元折り”と名づけた,ある点をある線分上に,同時に別の点がさっきとは別の線分上にくるように折るという従来の折り紙にはなかった折り方がポイントになっています。

角の3等分線で思い出すことなど。
学校で角の2等分線の作図について習った時なので,たぶん中学1年のときのこと。

先生は,「このようにどんな角も正確に2等分できます」と角の2等分線の作図方法が正しいことの説明をした後,
  「しかし,3等分については,できるのは,90°などの特別な角だけです。勝手に与えられた角を3等分することはできません」
みたいなことを付け加えました。それを聞いた私が思ったのは…

  えー! どうして“できない”なんて決めつけちゃうんだろう。方法が“見つかってない”ってだけじゃないの?  

「任意の角を3等分する方法はない」を,「宇宙人はいない」とか「ツチノコはいない」とかと同列にとらえていたんですよね。いくら探しても見つからないし,現代の常識をもとにすると“いない”となるんだろうけど……という感じ。で,次に思ったのは

  じゃあ,探してみよう!

宇宙を調べたり,ツチノコを探しにあちこち行ったりするのと違って,紙と定規とコンパスがあればいいので,探せば見つかるかもと思ったんですよね。

それから,休み時間や家に帰ってからいろいろ試してみました。試すといっても,平行線や角の2等分やら垂直2等分線やらを闇雲に描いてみるだけですが。テストで時間が余ったときに答案の裏でやったりもしました。なかなかできなくて(当然ですが),定規とコンパスを立体的に使ったらできるんじゃないかと考えたこともありました。
 ※注意:こんな使い方をすることは認められていません。*2
たまに,それらしい線が描けることがあると,別の大きさの角でも試してみたり,なんとなく良さげだったら,その方法が正しい(どんな角でも3等分できる)ことを証明(説明)しようとしました。証明するといっても,使える道具は3角形の合同条件と平行線と角の性質(同位角は等しいとか)くらいしかないわけですが。角の2等分線については,3角形の合同を使って説明していたので*3,それらしい線が描けるだけではだめで,ちゃんと説明できないといけないということはわかってたみたいです。

当然,3等分の方法は見つからず,諦めたのか,単に飽きたのかは忘れましたが,3等分の方法探しはいつの間にかやめてしまいました。

背理法なんかも知らず,“不可能を証明する”ことができるなんて思いもしなかった頃の話。
角の3等分については,こんな本↓も出ています。
  「角の三等分」著:矢野健太郎,解説:一松信(ちくま学芸文庫


   すごいぞ折り紙 入門編: 折り紙の発想で幾何を楽しむ   角の三等分 (ちくま学芸文庫)
 

*1:「すごいぞ折り紙 入門編: 折り紙の発想で幾何を楽しむ」著:阿部 恒(日本評論社

*2:「ここで、定規は2点を通る直線を引くための道具であり、目盛りがついていても長さを測るのには使わないものとし、コンパスは与えられた中心と半径の円を描くことができる道具である。」Wikipadia「定規とコンパスによる作図」より

*3:3角形の合同条件やそれを使った2等分線の作図が正しいことの説明は,当時(1978年度)は中1でしたが,現在は中2の学習内容のようです。作図の方法についてはどちらも中1。

算数って難しい

娘が小1の家庭訪問のときのこと。話の流れがどうだったのかは忘れましたが,担任の先生が
「1年生の算数は簡単ですからね。」
と言いました。私は,その言葉に「そうですね。」とあいづちを打ちながらも,

本当に“簡単”なのかなぁ。確かにどの子も習ってすぐにできるようになるけど,実際は“すぐに”なんかじゃなくて,長い時間――生まれてから小学校に入るまでの6年以上――をかけて「数」というものの概念や感覚を身に着けた結果なんだよなあ。誰もがいつの間にか当たり前のように身に着けているものだからこそ,どうやって身に着けたかはよくわからなかったりする。もしかしたら,算数・数学全体の中で,小学1年生の算数が一番難しいのかもしれない。

……なんてことをぼんやり考えたりしてました。

最近でも,ネット上での掛け算や足し算などのことの話題*1を見てたら,
  掛け算って何なんなんだろう,「式」で表すってどういうことだろう,「抽象化」ってどういうことなんだろう・・・
とかまでいろいろ考えてしまって,頭がこんがらがってきました。子供の成長段階のことも絡んでくるし(しかも成長の早さもタイプも子供によって違う)。
算数って難しい。


足し算,引き算,掛け算,割り算……etc。小学1年生の算数に限らず,算数で習う内容は大人だったら誰もが当たり前のようにわかって,適切に使い分けているものばかりです(難しい問題が解けるかどうかは別として)。でも,どうやってその段階に至ったのかは,よくわからなかったりします。教科書,学校の授業,塾や親から習ったこと,毎日の生活や子供同士の遊びの中での経験といったものが元になっているのでしょうが,そういった外からよく見える・ある程度見える段階の先の,それぞれの頭の中でのことは外からは見えないし,自分でも意識してない場合も多いし。頭の中で,具体的な場面を想像したり,別のもの(単なる○とか)に置き換えたりして抽象的に考えたり,経験その他から覚えた結果を使ったりといったことを何度も繰り返しながら,あるいは,もっとぼんやりといろいろ感じたり迷ったりしながら,数や式,演算といった抽象的な概念を身に着けてきたのだろうと思います。辿り着く場所(ある種の概念の獲得)が同じでも,そこまでのプロセスはきっと様々です。

学習のつまずきの原因を探るために理解や習得のプロセスの分析を試みることも大切なのでしょうが,“効率的”(経験上,あるいは,統計上)な方法を押し付けて自分で理解・習得のプロセスをつかむ力を阻害してしまったり,理解を助けるための指導が単なる“「正しく理解している」という評価をもらうための手続き”の指導になったりしまわないように願いたいです。小さな子供の場合,理解・習得のプロセスに立ち入りすぎない方がいいのかもしれません。

*1:掛け算や足し算の順序問題や,足し算や引き算の種類(合併と追加,求残と求差とか)やその指導についてとか

国・私立の中学・高校のこと

2013年度,東京では4人に1人が国・私立の中学に進学したそうです。千代田区なんかは40%近くだそうです。全国では7.9%ほど。*1

私は中学高校とも地元の公立。特に不満はなかったです。
「特に不満なし」だったとはいえ,都会のすごい私立中学・高校では,きっとすごい先生とすごい生徒がいてすごいことをやってるんだろうな(なんじゃそりゃ?)と漠然とした憧れのようなものはありました。単なる興味と憧れですが。だって自分は絶対行けないし(“すごい私立中学・高校”で思いつくのは灘とラ・サールくらいで,学力や学費以前に,その両方とも遠くにあってしかも男子校だったので)。公立と私立中高一貫進学校との学習進度やカリキュラムの違いに不安や焦りを感じるということもなかったです。単に私が情報に疎かったというのもありますが,実際,私の時代は私立と公立に進度差は今ほどなかったそうです。

あれから約30年。

普通の公立とのカリキュラムの違いは大きくなりました。中高一貫校用の別の教科書(検定外)もあるようです。
「勉強ができる子にとって普通の公立中の授業は無駄」「公立高のカリキュラムでは入試に間に合わない」みたいな意見がいたるところに見られます。
進学校型の公立中高一貫校もでき,人気も高まっているそうです。
中高一貫校の中には,進路の違いなどから,高校での募集をしないところも増えているようです。
私の出身地でも,中学の段階から親元を離れて県外の進学校へという人も増えているそうです。

子供の能力や性格を見据えた早期の進路選択の必要性が高まっているということでしょうか。親の責任はますます大きくなる…。

その子・その家庭にとっての“一番合った進路”がうまく選べればいいのですが,選んだ進路(とそのための方法)が一番合った進路かどうかは誰にもわからない。他の進路を体験して比べるということはできないわけですからね。同じことは人生の中のどの時期でもいえるのですが,中学進学(=本人は小学生)となると親が持っているもの(お金だけでなく,考え方,情報,…etc)によるところが大きいです。その分,うまくいかなかったときに親のせいにしたり(あるいは,親が責任を感じたり),諦めにつながったりしやすいかも…。

少々うまくいかなくても,「大丈夫だよ」と言ってあげられるような,「まぁ,いいか」と楽な気持ちになって進む道を探して歩き出せるような世の中がいいなと思います。

ニッポニア・ニッポン〜国語の時間の思い出

ニッポニア・ニッポンはトキ*1の学名です。
何年生のときだったか忘れたけど,小学校の国語の教科書にトキの繁殖かなんかの話が載っていました。その授業での思い出。

その話の最初の方に
  ○○(主人公)は,珍しい鳥が飛んでいくのを見た。
みたいな文がありました。私は特に気を留めず,先の文に進むのを待っていたら,先生が
  「この文から何がわかりますか?」
と尋ねました。思っても見なかった質問に驚きながらも,一生懸命考えて
  鳥に詳しいはずの主人公(研究所の人か猟師かなんかでそのあたりの鳥に詳しい人だったと思う)が「珍しい」と思うのだから,生息数がすごく少ないに違いない。
  いや,もしかしたら,数が少ないんじゃなくて,すごく臆病かなんかで人のいるところには姿を見せない鳥なのかも。
なんてことを答えたような気がします。ただそれだけの思い出。それ以外(その後先生がどうコメントしたかとか,先生の想定した答えが何だったのかとか)は覚えてない…。

それだけのことなんだけど,このとき

  サラッと読み流してしまうような何気ない文でも,注意深く読むことで,わかることや想像できることがある

ということを学んだ…ような気がします。

*1:ペリカン目トキ科の鳥(Wikipedia「トキ」より)

はてさてこの私は

テレビや新聞で紹介される「すごい人」は,昔は自分よりずっと年上で,見習わなくちゃと思ってた。だけどいつのまにか自分より同世代の人も多くなり,最近では年下の人も…。同じ時代を過ごしてきたはずなのに,私は何もしてきてないなあ。

高校を卒業してからちょうど30年。
30年といえば,生まれた子供がちゃんと育ち,小中高と学校に行き,大学,大学院と長めの学校生活を送った人も社会に出て一通りの仕事を覚えた一人前の社会人になるくらいの年月。長い年月。だけど私自身はちっとも成長してない気がする。

重大な局面ほど適当に,入れなくてもいいときばかり(しかも入れなくてよい方向ばかりに)無駄に気合い入れて,求めているものがあるんだかないんだか…。
そんな感じで何十年と過ごしてきたわけですが,最近,以前よりも増して
  何にも持ってないよなあ
と感じることが多いです。

お金も持ってないし,社会人としてのスキルもない。何か立派なことを成し遂げたわけでもない。

…とまあ,少々鬱々としていたわけですが,今日はいいお天気で,四月の風は気持ちよくて不思議とそんな気分もどこか行ってしまいました。

  何かが起こりそうな気がする,自分にも何かできそうな気がする,そんな四月の風。

根拠はないんだけど,なんとなく。調子いいですね。いい加減ですね。

とはいえ,やりたくないことはやらないし,やれることしかできないけど。

これまでもそうなんですけどね。それでなんとかなってきたのはラッキーだよなあ,時代にも人にも恵まれてきたんだなあ。ありがたいことです。いつか,恩返しっぽいこと―この世の中のため,自分よりももっと若い人たちのためになるようなこと―ができればいいな,なんて思っています。漠然としてる,かつ,壮大すぎる……。何を,とか,どのように,とかはまだ全然わかからないけど。やりたいこと,やれることを一つずつ積み重ねながら探っていきたいと思います。


さぼり気味のこのブログももう少しちゃんと書いていこうと思います。
これまでの記事を読んでくださった方々,ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。


「はてさてこの俺は」*1を聴きながら。



(おまけ1) 更新情報のお知らせのtwitterアカウントを作りました。→@cweed_nhnc

(おまけ2) BGMはこちらもどうぞ→*2

 

*1:CDシングル「あなたへ」(エレファントカシマシ)所収

*2:「穴があったら入いりたい」「飛べない俺」(CDアルバム「MASTER PIECE」所収),「四月の風」(CDアルバム「ココロに花を」他所収),「シグナル」(CDアルバム「町を見下ろす丘」所収)※いずれもエレファントカシマシ

待つ〜フジテレビ「全力教室」(2014年3月9日放映,講師:宮本哲也)

「あっ『強育論』*1の人だ!」ということで番組を録画したのを見ました。共感する部分が多かったです(東京の中学受験についてはよくわからないですが)。

講師の宮本哲也さんは宮本算数教室という中学受験の塾(生徒は小3〜小6)を主宰している人で,その教育法は「教えない」という異色のものだそうです。
生徒役は,大神いずみさん,加藤浩次さん,杉村太蔵さん,田村亮さん(ロンドンブーツ)など。

印象に残っていることをいくつか。
 注)細かい言い回し等は実際と違っています。

何も教えなければ,自分が今持っているもので戦うしかない

「これは社会に出ても有効な方法で,手取り足取り教えて有能になるかというと絶対にならない。」という言葉も続きました。
新しい“武器”(高度な知識や解き方のヒント)を安易に与えず,“自分が今持っているもの”を最大限に活用しようとすることが,算数の勉強以外でも役立っていくのでしょう。
内田樹氏がブログ*2で,不測の事態,危機的状況を生き延びるには手持ちの資源だけを使って何ができるかのシュミレーションが大事,みたいなことを書いていたのと通じるようにも思います。

一番印象に残っているのは「待つ」という言葉。

子供が考えているときは教えず待つ。
(大神)すごい時間がかかりますね
(宮本)大事なことです

(加藤)手前,手前で声をかけすぎ!
(宮本)そう! 待つ!

(杉村)一生懸命考えさせるにはどうしたらよいか?
(加藤,ロンブー亮)やる気スイッチ,ギアを入れるには?
(宮本)外から触っちゃダメ。スイッチが入るまで待つ

・途中で考えるのをやめても放っておく。放っておくとよそを見ている間も頭の中では働いている。
・解けなくても考える時間が賢い脳を作る。
・すべての子供はやる気に満ち溢れている。
・子供が何かに没頭しているのは生命力を磨いている宝の時間

というのもありました。

  待つ
  子供の力を信じて待つ

ということですね。親は余計なことをしない,何も言わないことが大事なんだそうです。


現代はIT社会,高度テクノロジー社会で,生き抜くにはスピードが命!とばかりに,もっと早く! もっと速く!とサービスも技術も進化しています。
それはそれでいいことなのだけど,それは同時に

 待たせてはいけない
 待ってはいけない
 時間をかけてはいけない
 
というメッセージにもとれ,本当によいのかと少し心配になることがあります。

いつまでも待つことはできないという状況もありますが,子供たちが

  待ってもらえるんだ,待ってもいいんだ

と思える場は残しておきたいと思います。

*1:

強育論-The art of teaching without teaching-

強育論-The art of teaching without teaching-

*2:「東北論」(内田樹の研究室 2013/04/22)http://blog.tatsuru.com/2013/04/22_0928.php