楽しい授業〜益田ミリさんのコラム(朝日新聞,2015年10月17日)
益田ミリさんが新聞のコラム*1で,学校の勉強で楽しかった思い出のことを書いていました。
間違いなく楽しくて,待ち遠しかったというその勉強は,小学校1年生のときの「ひらがな」だったそうです。
ほら、ここはこーんなふうにまがって、最後はくるん。な、みんな、面白いだろう?
それが本当に面白そうで、
「先生はいいなぁ、黒板にあんなに大きく字が書けて」
と、うらやましかった。
と,ひらがなを“書く”ことが「面白そう」と思ったり
わたしには、ひらがなにも性格があるように思えた。
「あ」の行はきちんとしている。勉強ができて、なんでも一番の人々だ。(中略)
けれど、一番すばらしいのは「ま」行の人々である。どの行よりも、優しく見えたのは、むろん、自分の名字が「ま」で始まるせいである。まみむめも。全体的に丸みがあってかわいらしい。自慢でならなかったが、誰にも自慢はしなかった。
と,形や響きから“ひらがなの性格”を感じたり
クラスメートの名前の一文字を習うとき、ああ、これが「わだくん」の「わ」なんだなぁと親しみがわいたものだ。耳で聞こえている言葉が、あるいは普段、口にしている言葉が、こんなふうに文字になって目で見られるということが不思議だった。
と,音としての言葉,モノの名前としての言葉が文字で見られることを不思議に思ったり・・・。すごく楽しそうです。
特別な工夫が施されたり,イベント的なものではなく,ひらがなの書き方を習ったり,習ったひらがなを使った言葉を捜したりという,おそらくごく普通の日常的な授業だったみたいなんですけどね。
ミリさんの,その“楽しい”という気持ちですが,周りの大人(先生とか家族とか)には見えてなかったかもしれません。大人から見れば,普通の授業を普通に受けてるというだけにしか見えなかったかも。「ま」行を自慢に思っても誰にも自慢してないし,“耳から入る言葉が文字になって見えることが不思議”という気持ちも,大人になった今だから説明できてるけど,当時(小学一年生)は言語化されてなかった可能性も高いような気もします。面白いと思っても意識的に外に出さないこともあるし,特に理由なく出さないこともある。時間がたって気づく楽しさや面白さもある。
何か感じたら先生や親の期待するような形&期待するようなタイミングでアウトプットされるかというと,そうじゃないと思うんですよね。
思ったような反応がないから,意欲がない・関心がないと決めないようにしたいものです。