No Haste, No Chains ~数学の教育をつくろう~

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学校教育の目的

内田樹氏のブログ*1「学校教育の終わり」(2013年04月07日)という記事を読んで。

日本の近代学校教育システムは「国民形成」という国家的プロジェクトの要請に応えるかたちで制度設計された。つまり、学校の社会的責務は「国家須要の人材を育成すること」、「国民国家を担うことのできる成熟した市民を作り出すこと」ことに存したのである。サラリーマンになるにしても兵士になるにしても学者や政治家であっても、教育の目的はあくまで「国家須要の人士」の育成である。成否は措いて、この目的そのものは揺るぎないものだった。
1945年の敗戦でも、学校教育の目的が国民国家の未来の担い手を育てることであるという目的そのものに疑いは挟まれなかった。戦後生まれの私たちの世代は「民主的で平和な日本の担い手」たるべく教育された。

うんうん,とうなずきながら読んでいたのですが

この合意が崩れたのは一九七〇年代以降のことである。
(中略)
このとき、学校教育の目的は「国家須要の人材を育成すること」から、「自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力・財貨・文化資本の有利な分配に与ること」に切り替えられた。
教育の受益者が「共同体」から「個人」に移ったのである。

1970年代というと,ちょうど私が小学校〜中学校のころだ…。

もちろん、明治に近代学制が整備されたときから、人々は自己利益のために教育を受けた。ほとんどの場合はそれが「本音」だった。だが、「おのれひとりの立身出世のために教育を受ける」という生々しい本音を口に出すことは自制された。あくまで学校教育の目的は「世のため人のため」という公共的なレベルに維持されていたのである。
七〇年代以降、それが変わった。人々はついに平然と学校教育を「自己の付加価値を高め、自己利益を増大するための機会」だと公言するようになった。教育の受益者が「共同体」から「個人」にはっきりと切り替わったのである。

なんだか,1970年代にいきなり“生々しい本音”が教育の現場で口に出されるようになった印象ですが,70年代は学校をはじめ,公の場で子供に対してこういうことを言うことはなかったんじゃないかと思います。だって,私自身が学校でそんなことを聞いた記憶ないし。大人同士,ある程度大きくなった子供同士,家庭によっては(家庭で)小さい子に対して親が子にそう言うとかはあったかもしれませんが。

勉強する(小さい子供にとっては学校で勉強することとイコール)のは,社会を支える立派な大人になるためという感じ。具体的にこう言われたとかを覚えているわけではないけど,なんとなくそんなメッセージを受け取っていたような気がします。勉強することが自己利益の増大がにつながるとしても,そのことは最終的に世の中全体をよくすることにつながる・つなげなければというメッセージ。

勉強する意味というとテレビアニメ「ちびまる子ちゃん」で見たノストラダムスの大予言の話を思い出します。まる子はいったんは「ノストラダムスの大予言によると1999年に地球は滅びるから,勉強なんかしなくてもいいや」と考えるんですが,もしも予言が外れたら…と考えてやっぱり勉強しておこうとなるのですが,そのときのせりふは「勉強しとかないとバカな大人になっちゃう!」だったような気がします。「貧乏になる」じゃなくて「バカになる」。で,まる子のイメージするバカな大人は,大人が当然持っているべき思考力や知識に欠けた人(のように見えました)。まる子にとっても,学校の勉強はちゃんとした大人(=成熟した市民)になるためのものというイメージだったのかなとか思いました


内田氏のブログに戻り,欧米との比較の部分より

欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。(中略)
だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。
彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。

欧米のほうが公教育が崩壊しているイメージだったのですが,内田氏には日本のほうが希望がないと感じられるようです。
しかし,「彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。(中略)公共心の高いエリートが育つはずがない。」と言い切らなくても…。東大や京大の卒業生は毎年5000人も出ていて,育った時代も環境もバラバラで「子供のころから〜と教えられてきた」とひとまとめにはできないかと。環境や時代からどう影響を受け,どう育ったかもいろいろなはずです。

内田氏は「「公共的な使命」が託されてる感覚を持つ人が,日本の場合は東大や京大の卒業者の中にはほとんどいない」と悲観的ですが,“ほとんどいない”ということは,“少しはいる”ということですね。