No Haste, No Chains ~数学の教育をつくろう~

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勉強は嫌い〜ニッポンのジレンマ「僕らの救国の教育論」2

録画を消去する前に続きを…。サボってるうちに放映から1ヶ月近くたってる…

苫野「ゆとりの理念が,終わったらすぐに忘れてしまうような膨大で細かい知識をひたすら教え込むのでなく,自ら探求して,あるいは学びあって自分で考えていける力をつけるためにという理念だったら,これは僕はOKだったと思うんですよ。」

その通り。っていうか,どんな教育課程でも,教育っていうのはこういうものだと思うんだけど。

猪子「できないことができるようになるとか,知らないことを知るとか,わからないことがわかるというのは結構エクスタシーだから,根源的は欲求だと思うんですよ。本来はできるようになっていくって楽しいんだけど,いまは勉強みたいなもんが全員嫌いみたいな」

前半,本当にそのとおりだと思います。この気持ちを育てていければ子どもたちは自分で学んで成長してくれるんじゃないかと。でも,それを妨げてる要因の一つが後半にあるように「勉強=嫌いなもの」という図式ができあがってること。内田樹氏のいう「学んではいけないという圧力」(うろ覚え)ですね。

それぞれが受けてきた教育や現在の状況で過去・現在の教育についてのイメージはバラバラだと思います。今回のメンバーでも同世代ではあっても東京の私立中高一貫校出身の東さんと地方の公立出身の猪子さんではずいぶん違うんじゃないかと思います。大学の学部もその後の仕事の仕方もずいぶん違うし。東さんの言葉が猪子さんにいまひとつ届いていないように見えたのはそのせいかも。
同じときに同じ学校に通っていても感じ方や細かな経験は人それぞれです。

で,そのバラバラの経験やイメージをもった人たちが何人か集まって教育について語るには出発点となる共通の認識がある程度は必要で,採用されるのはいつも「勉強=つまらない」,「学校=縛られた空間,同調圧力(堀アナ,東さん)」,…etcという学校や勉強,教育についての負のイメージ。
 「学校のこれが楽しかった」って言っても「ふーん,よかったね」で終わりそうだし,「勉強楽しかったよ」って言って「成績がいい(あるいは,先生に気に入られてる)ヤツはいいよな」なんて思われたら嫌だしということはあるんだろうけど。
「そうだよね,嫌だったよね」「そうだよね,ダメだよね」って感じでそのほうが盛り上がるんだろうけど,いつもそれでいいのかなあ。記憶に残るいくつかの「嫌だったこと」やニュースになるような問題教師や問題のある子どもや親は目立つけど,その陰にある,特に記憶に残らず,良い意味でも悪い意味でも特にニュースにならないような膨大な“普通の日々”の中にこそ教育や学びを希望のもてるものにするためのヒントがあるような気がします。