数学という文化資本〜「街場の現代思想」
はてなから,「どうして記事をずっと書いていないの?」ってアンケートが来たなぁってことで,「街場の現代思想」(内田樹,文春文庫)*1を読んだところだったし,久しぶりの投稿です。
第1章(文化資本主義の時代)が印象に残った。
フランスは文化資本の多寡によって階層化された社会だそうで,一方の日本は
日本は明治以来の一五〇年間,それほど階層的な社会ではなかった。むしろ,世界にも例外的な均質的社会を実現した。
だそうだ。しかし,その日本も階層社会の出現を前にしているとのこと。
確かに,その流れは感じる。
しかし,日本が「フランスみたいな階層社会になること」に私は同意することはできない。
(中略)
文化資本の差によって階層化される社会というのは,流動性の低い社会だからである。そして流動性の低い社会は,私にはあまり住み良いようには思われないのである。
フランスみたいな階層社会になるのは,私もイヤだ。
自分がラクに暮らせればいいとか,自分が勝ち組になればいいとかではなく,世の中全体が住みやすいのがいい。
とりあえず,今のところは,「世界にも例外的な均質的社会」ということで,ということは,ほとんどの人が(程度の差は多少あっても)共通して持っている文化資本があるということになる。
高校進学率ほぼ100%。高校までの数学,特に小学校の算数・中学校の数学の一部は,みんなが享受し,(程度の差はあれ)気がついたら身についてしまっていた「身体的な文化資本」なんじゃないだろうか(学校で得られた文化資本ではあるけど)。
役に立つか立たないかわからないけど触れさせられるというのも「文化資本」らしいし。
「2次方程式なんて人生で役に立ったことがないから,やらなくていい」
「そうだそうだ」/「いや,そんなことはない」
なんてずいぶん話題になったが,これは2次方程式という文化資産を共有しているからこそのことなんではないだろうか。
数学という共通の文化資産を失った社会を私たちは知らない。
軽い気持ちで手放してはいけないと思う。
*1: